長野地方裁判所 平成8年(行ウ)4号 判決 1997年12月25日
主文
一 原告らの被告長野県知事に対する労働者委員任命処分の取消しを求める訴えをいずれも却下する。
二 原告らの被告長野県に対する請求をいずれも棄却する。
三 訴訟費は原告らの負担とする。
事実及び理由
第一 請求
一 被告長野県知事が平成八年一月一三日付けでした別紙記載の五名に対する第三四期長野県地方労働委員会労働者委員の各任命処分(以下「本件処分」という。)を取り消す。
二 被告長野県は、原告らに対し、それぞれ金一〇〇万円及びこれに対する平成八年一月一三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
本件は、原告らが、被告長野県知事(以下「被告知事」という。)において本件処分を行うに当たり、原告井上今朝雄(以下「原告井上」という。)を労働者委員として任命しなかったのは、同原告を推薦した原告長野県労働組合連合会(以下「原告県労連」という。なお、原告井上を除くその余の原告らを「原告組合ら」と総称する。)を排除する意図の下にした著しく不公平なものであり、憲法一四条、二八条に違反し、裁量権を逸脱するなどの違法があると主張して、被告知事に対し本件処分の取消しを求め、併せて、本件処分は、被告長野県(以下「被告県」という。)の公権力の行使に当たる公務員である被告知事の不法行為により原告らの社会的信用及び名誉並びに原告組合らの団結権等を違法に侵害したものであるなどと主張して、被告県に対し、国家賠償法一条一項に基づき損害賠償を求める事案である。
これに対し、被告知事は、原告らには本件処分の取消しを求める訴えにつき原告適格がないとしてその訴えの却下を求めるとともに、本件処分は被告知事に与えられた裁量権を踰越、濫用しておらず適法であるとして右処分取消請求の棄却を求め、また、被告県は、主として本件処分の違法性を争い、かつ、これにより原告らはその法益を侵害されたものではないとして損害賠償請求の棄却を求めている。
一 争いのない事実
1 当事者
(一) 原告県労連は、全国労働組合総連合(以下「全労連」という。)の長野県における地方組織であり、原告全日本全属情報機器労働組合長野地方本部及び原告長野県医療労働組合連合会は、原告県労連に加盟する単位産業別組合であり、これとは系統を異にする日本労働組合総連合会(以下「連合」という。)及びその地方組織である日本労働組合総連合会長野県連合会(以下「連合長野」という。)のいずれにも加盟していない。原告井上は、平成元年から現在まで、右原告全日本全属情報機器労働組合長野地方本部の執行委員長の職に在任している。
(二) 被告知事は、労働組合法(以下「労組法」という。)第一九条の一二第三項に基づく長野県地方労働委員会(以下「長野県地労委」という。)の労働者委員の任命権者である。
2 本件処分に至る経緯等
(一) 長野県地労委第三四期労働者委員の推薦公告と推薦
被告知事は、平成七年一〇月三〇日付け長野県報をもって、県下の各労働組合は長野県地労委の第三四期労働者委員の候補者を推薦されたい旨の公告をした。
原告組合らは、右公告で指定した推薦期間内の平成七年一一月二四日、原告井上を長野県地労委の第三四期労働者委員の候補者に推薦した。原告井上のほかには、連合長野の加盟組合が推薦した五名の労働者委員候補者がおり、結局、定数五名に対して合計六名が推薦された。なお、右六名のいずれについても労組法一九条の四第一項所定の欠格事由は存しない。
原告県労連は、推薦の際及びその後も数次にわたり、被告県の副知事、社会部長や社会部労政課長らに対し、公正な任命を行うよう強く要請するとともに、公正な任命を要求する団体や個人署名多数を右社会部長に提出した。
(二) 本件処分
被告知事は、平成八年一月一三日、連合長野の加盟組合の推薦に係る別紙記載の五名を長野県地労委の第三四期労働者委員に任命する本件処分をし、その結果、原告井上は労働者委員に任命されなかった。
二 争点に関する当事者の主張の要旨
1 本件処分取消しの訴えに係る原告適格の有無
(一) 被告知事の主張
行政事件訴訟法九条は、「処分の取消しの訴え及び裁決の取消しの訴えは、当該処分又は裁決の取消しを求めるにつき法律上の利益を有する者」に限りこれを提起することができると規定している。右「法律上の利益」とは、権利又は法律上保護された利益をいうものであって、この利益を有しないものには原告適格がないと解される。
ところで、労働委員会制度は、その構成員に使用者を代表する者及び労働者を代表する者を加え、もってその権限行使の公正を図り、また、労使自治の精神を生かして紛争の迅速適正な解決を図ろうとするものであるから、労働者委員は、自己が推薦を受けた特定の系統に属する労働組合の利益のためにではなく、労働者を代表する者として、労働者一般の利益のためにその職責を果たすべきものである。労働組合が労働者委員を推薦し得る権限も、右の労働者一般の利益という公益のため認められたものというべきであり、特定の労働組合又は特定の候補者の個別的利益のために認められたものではないから、特定の労働組合から推薦を受けた候補者が労働者委員に任命されなかったからといって、推薦をした労働組合及び推薦を受けた候補者の権利又は法律上保護された利益が侵害されたということはできない。
したがって、原告らは、本件処分について行政事件訴訟法九条所定の「法律上の利益を有する者」に該当せず、被告知事に対する本件処分の取消しを求める訴えは、いずれも原告適格を欠き不適法であるから却下されるべきである。
(二) 原告らの主張
行政事件訴訟法九条所定の「法律上の利益」については、単なる事実上の利益にすぎないものであっても、それが実質的な保護に値するものであれば足りるものというべきである。仮に、それが「法律上保護された利益」であることを必要とするとしても、当該処分の根拠法規を形式的に解釈するのではなく、その法規の目的や趣旨、沿革、関連法規の規定により形成される法体系全体における位置付けや直接かつ重大な被害発生のおそれの有無等を考慮し、実質的、総合的に判断すべきである。
労働者委員とは「労働者を代表する委員」であり、労働組合は労働者の利益を代表するものであるから、労働者委員を推薦した組合は、委員任命についてその意思が反映されることについての権利ないし法的利益を有しているというべきである。まして、系統を異にする労働組合運動の間に基本方針の対立が存在することにかんがみれば、抽象的な「労働者一般の利益」を代表する労働者委員というものを想定することは困難であり、ある系統の組合から推薦を受けた労働者委員が他の系統の組合の労働者の利益を代表するということを期待することはできないから、労働組合は、自己の属する系統の「労働者を代表する委員」が任命されるか否かについて切実な利害を有しているということができる。また、旧労組法の立法当時以来、現在に至るまで、立法、行政、司法の各分野において、右のように労働組合運動に複数の系統が厳然と存在することを前提として、労働者委員の数については系統間の公平、公正な配分が必要であるということが一貫した解釈として表明されてきた。特に、労働省事務次官通牒(昭和二四年七月二九日付労働省発労第五四号、各都道府県知事宛。以下、この通牒を「五四号通牒」という。)は、労働者委員の任命につき、「委員の選考に当っては、産別、総同盟、中立等系統別の組合数及び組合員数に比例させるとともに貴管下の産業分野、場合によっては地域別等を充分考慮すること」としており、この通牒は現在においても効力を有するというべきである。そして、法が労働組合に労働者委員を推薦し得る権限を与えた趣旨は、各系統の労働組合の利益を公平に反映させるため、労働者委員任命手続に参加するための手続的権利を認めたものと解すべきであるから、労働組合は、自己の推薦に係る労働者委員候補者が委員任命手続において公正かつ適正な判定を受けることについての権利ないし法的利益があるというべきであり、労働組合の推薦を受けた候補者自身もまた同様である。
右のとおり、推薦組合である原告組合ら及びこれらから推薦を受けた原告井上は、本件処分の取消しを求める法律上保護された利益を有するから、被告知事に対する訴えについて原告適格を有する。
2 本件処分の取消事由としての違法性の存否
(一) 原告らの主張
被告知事は、地方労働委員会の労働者委員任命について権限を行使するに当たり、憲法を遵守し、法の下の平等に反する不公平・不公正な処分をしてはならないが、本件処分は一部の労働組合に偏った人選をし、原告組合らを差別したもので、その違憲性は明白である。
すなわち、現実の労働組合運動の潮流において、様々な思想・路線の対立が存在しているのであるから、知事は、労働者委員の任命において、各潮流の候補者を平等に扱う義務があるというべきである。前記五四号通牒も、その趣旨を明らかにしたものである。しかし、被告知事は、本件処分において、連合長野系労働組合推薦の候補者のみで労働者委員を独占させ、原告組合ら推薦の候補者を労働者委員から排除したのであり、これは思想・方針の違いを理由とした不合理な差別であって、本件処分は平等原則を定めた憲法一四条に違反する。
また、労働者委員に係る推薦制度の趣旨は、団結権を保障された労働組合に対し、不当労働行為等の救済制度である地労委における各種の手続に労働組合自らが参加する権利を与えたものであり、これを実質的に保障するためには、自己の系統に属する労働者委員が存在することが必要である。したがって、原告県労連系の労働者委員を排除した本件処分は、原告ら組合の団結権を侵害したといえるので、憲法二八条に違反する。そして、知事の恣意・独断を排除し、憲法二八条で保障された労働基本権を具体的に擁護するという地労委の設置目的に適し、かつ、労働者の利益代表として要求される資質を持つ者を労働者委員として選考するためには、何らかの任命基準を定立することが不可欠の前提となる。このような観点からすると、労働組合系統別に比例代表とすることなどを内容とする五四号通牒は、本来労組法に内在する任命基準を示したものであるということができる。本件処分は、系統別、産業別及び組合員数のいずれにおいても、五四号通牒に違反するのであるから違法である。
次に、本件処分が裁量行為だとしても、裁量権の踰越又は濫用がある場合には違法であり(行政事件訴訟法三〇条)、裁量権の踰越又は濫用がある場合とは、考慮すべき事項を考慮せず、考慮すべきでない事項を考慮した場合等社会通念上著しく妥当性を欠くと認められるときであると解される。これを本件についてみると、まず、長野県地労委の労働者委員の任命について、平成元年度以前は毎期において常に県評系三名、同盟系一名、中立労連系一名の割合で任命されてきた慣行が存在した。この慣行は、当時存在した三系統のローカルセンターの潮流間の差異に注目してそれぞれの系統から代表者たる労働者委員を選任するのが民主主義に適い、公平・公正であるとの発想によるものであり、平成元年一一月ころ連合と労連が結成され、そのローカルセンターが連合長野と原告県労連となった以降も当然に継承されるべきであった。ところが、平成二年度以降の原告県労連傘下の組合員の長野県内の全組合員に対する割合は一二パーセント前後であり、原告県労連が労働運動の一方の潮流を代表する勢力であることや地労委における救済申立て等の活発な活動を展開している事情等を考慮すると、長野県地労委の労働者委員のうち少なくとも一人は原告県労連系から選任されるべきであるところ、被告知事は、原告県労連と連合長野が発足した後である第三二期及び第三三期の各労働者委員の任命に際し、いずれも原告県労連推薦の候補者を排除して五名全員を連合長野傘下の労働組合の推薦に基づいて任命し、本件処分においても、連合長野傘下の労働組合の推薦する五名を任命する一方で、原告組合らが推薦する原告井上を任命しなかった。そうすると、被告知事は、本件処分に際して、当然考慮すべき労働者委員の役割、係属事件と労働者委員の対応関係等に何ら考慮を払わず、連合独占、労連排除という不正の動機を持ってしたものであり、さらに、本件処分は、前記慣行により培われてきた県と推薦主体たる労働組合との間の信義則に反するので、社会通念上著しく妥当性を欠くと認められる場合に該当し、裁量権の踰越又は濫用があったということができ、違法である。
(二) 被告知事の主張
本件処分は、何ら裁量権を踰越又は濫用したものではなく、適法である。
すなわち、被告知事が長野県地労委の労働者委員を任命する行為は、特別職の地方公務員(地方公務員法三条)の任命行為であり、その性質自体から本来的に任命権者の広範な自由裁量に委ねられているものである。また、労組法は、その任命要件について、労働組合から推薦があった者(労組法一九条の一二第三項)で、かつ、同法第一九条の四第一項所定の欠格事由に該当しない者のほかには何ら任命権を制限する規定を設けていない。しかも、労働者委員の任命行為は、これによって直接的に国民の権利、自由を剥奪するとか不利益を課する行為ではないから、羈束裁量行為と解すべき理由はない。これらのことから、知事の労働者委員の任命行為は、実体法上、任命権者の広範囲の自由裁量に委ねられていると解される。
ところで、労働委員会制度は、労働者の団結権擁護の機能を持つほか、労組法に定める労働組合の資格審査及び不当労働行為事件の救済等の審査的機能のみならず、労調法等に定めるあっせん、調停及び仲裁の調整的機能をも有しており、このような制度の目的が公正な労使関係秩序の形成・維持にあることは明らかである。そして、労組法一九条一項が、使用者を代表する者、労働者を代表する者及び公益を代表する者について、各同数をもって労働委員会を組織すると定めた趣旨は、労使それぞれの私的利益の主張を直接取り入れるためではなく、労働争議の斡旋、調停、仲裁、不当労働行為等の判定等に際し、労使それぞれの主張を通して当該事件についての労使の利害を明らかにして、客観的に妥当な解決を図ろうとすることにあると解される。そこで、同条項の「労働者を代表する者」とは、労働者の立場を理解し、労働者一般の立場から労働委員会に関与する委員のことであると解すべきである。したがって、労働者委員の任命につき労働組合の系統別比例代表によるべきであることを前提とする憲法一四条違反の主張は、その前提自体において失当というべきである。
また、労組法一九条の一二第三項が労働組合に労働者委員の推薦を求める趣旨は、労使関係における紛争を取り扱う機関たる労働委員会の構成員としてふさわしい労働者一般の利益の代表者を選任するためのものであり、労働組合は、労働者一般の利益を代表し得るものを全労働者のために推薦すべきものであり、推薦組合自身の団結権等を保障するために推薦することが認められているわけではない。したがって、右推薦制度の趣旨が推薦組合自身の団結権等を保障するためにある旨の原告の主張は失当であり、憲法二八条違反の問題を生じない。
更に、原告らが労働者委員の任命基準として援用する五四号通牒は、地労委の委員の任命権者である都道府県知事が、労働者委員を任命する際、総合的に判断する上での一つの指針として示されたものにすぎず、その任命は、都道府県知事が広範囲の裁量の中で総合的に判断し、その権限と責任に基づいて行うべきものであり、都道府県知事は右指針のみに依拠して裁量権の行使をすべき義務を負うものではない。そもそも通達は法規としての性質を有しないから、それに従わなくとも、それだけで法的効果に直接影響を及ぼすものではなく、五四号通牒のような行政庁の処分の妥当性を確保するために設けられたその裁量権行使に関する準則について、これに違背する処分が行われたとしても、原則として当不当の問題を生ずるにとどまり、当然に違法となるものではないと解すべきである。
なお、任命権者がその権限行使の過程において推薦された候補者を正当な理由がないのに任命審査の対象から除外したり、これと同視すべき取扱いをしたときは、推薦制度の趣旨を没却するものとして裁量権の濫用として違法の問題を生ずることがあるが、被告知事は、本件処分において、原告ら組合が推薦した者も含めて候補者全員を任命審査の対象としているのであるから、右の裁量権の濫用となる場合には該当しないし、従来の各期と同様に、労働者委員の適格者の基準として、地労委の運営に理解と実行力を有し、かつ、申立人の申立内容をよく聴取し判断して関係者を説得し得る者であり、自由にして建設的な組合運動の推進に協力し得る者であると認められることを基本として、これらの要素を総合的に判断して、本件処分をしたのであり、連合独占、労連排除という不正の動機を持ってしたというようなことはない。
3 本件処分による原告らに対する不法行為の成否
(一) 原告らの主張
(1) 被告知事は、長野県地労委の労働者委員の任命権を有する者として被告長野県の公権力の行使に当たる公務員であるところ、被告知事の行った本件処分は、前記2(一)のとおり違憲・違法なものであり、原告らに対する関係で不法行為を構成する。
(2) 原告らは、被告知事の右不法行為により次のとおりの損害を被った。
<1> 原告県労連
被告知事は、連合長野傘下の労働組合推薦の候補者のみを任命し、原告県労連に社会的な認知を与えないことを企図して本件処分をした。従前は「長野県評」「長野同盟」等のローカルセンターの枠で地労委の労働者委員が決定されてきた経緯があるため、原告県労連は、推薦をした候補者が任命されなかったことにより、被告知事からローカルセンターとして扱われなかったという社会的評価が広まったことから、その名誉や信用を著しく傷つけられたばかりでなく、前記のとおり団結権を侵害され、その組織の維持・拡大等に大きな損害を受けた。
<2> その余の原告組合ら
原告県労連を除くその余の原告組合らは、自らの被推薦者に労働委員会において労働者を代表させる利益を有しているところ、本件処分により、右利益ひいては団結権を侵害され、更に、原告推薦組合が自信を持って推薦した候補者が、審査の対象としてすら扱われなかったことにより、その社会的評価を低下させられた。
<3> 原告井上
労働者委員の適格性については、労働組合ないし労働者が信頼することができる人物で、経験、実力、誠実性、不当労働行為についての専門的知識等がその判断資料とされるべきところ、原告井上は、それらの適格性を備えている。しかるに、被告知事は、原告井上の推薦組合が連合長野系統ではないという理由から、同原告を適法に推薦された者として扱わず、労働者委員に任命しなかった。このため、原告井上は、連合長野所属組合から推薦を受け労働者委員に任命された人物に比べて、人格が劣っているという扱いを受けたことになり、名誉、信用を著しく毀損された。
<4> 以上により原告らの被った損害は、それぞれ金一〇〇万円を下らない。
(二) 被告県の主張
(1) 本件処分は、前記2(二)のとおり被告知事に付与された裁量権の範囲内において適正に行われたもので、何ら違法なものではない。
(2) 定員を超える労働者委員候補者の推薦があった以上、結果的に労働者委員に任命されない者がいるのは当然であり、被告知事が、原告組合ら推薦の候補者を任命しなかったからといって、同原告らの名誉と信用を侵害することにはならない。また、労働者委員として推薦を受けた者が、労働者委員として任命されることを期待し得る地位に置かれたとしても、それは単なる事実上の利益であるから、本件処分が、原告井上の名誉と信用を侵害することにはならない。
第三 当裁判所の判断
一 本件処分の取消しを求める訴えについて
1 【要旨一】行政事件訴訟法九条所定の行政処分の取消しを求めるにつき「法律上の利益を有する者」とは、当該処分により自己の権利若しくは法律上保護された利益を侵害され又は必然的に侵害されるおそれのある者をいい、当該処分を定めた行政法規が、不特定多数者の具体的利益を専ら一般的公益の中に吸収解消させるにとどめず、それが帰属する個々人の個別的利益としてもこれを保護すべきものとする趣旨を含むと解される場合には、かかる利益も右にいう法律上保護された利益に当たり、当該処分によりこれを侵害され又は必然的に侵害されるおそれのある者は、当該処分の取消訴訟における原告適格を有するものと解されるのであるが、当該行政法規が不特定多数者の具体的利益をそれが帰属する個々人の個別的利益としても保護すべきものとする趣旨を含むか否かは、当該行政法規の趣旨・目的、当該行政法規が当該処分を通して保護しようとしている利益の内容・性質等を考慮して判断すべきである(最高裁平成四年九月二二日第三小法廷判決・民集四六巻六号五七一頁参照)。
そこで、右のような見地から、原告らが本件処分の取消訴訟に係る原告適格を有するか否かについて検討する。
2 【要旨一】労働委員会は、独立の行政委員会であって(地方自治法一三八条の四第一項、一八〇条の五第二項、二〇二条の二第三項)、労使間の紛争に関し公平な立場からその自主的解決を促進する(労組法二〇条等)などの調整的権限を有するほか、労働組合の資格審査(労組法五条一項)や不当労働行為の審査と救済(同法二七条)等の準司法的権限を有する。労組法上、労働委員会は、使用者委員、労働者委員及び公益委員各同数をもって構成され(同法一九条一項)、このうち労働者委員は、労働組合の推薦に基づき、地労委については都道府県知事が任命するものと規定されている(一九条の一二第三項)。したがって、任命権者である都道府県知事は、推薦を受けていない者を労働者委員に選定して任命することができないという意味で、その権限行使に一定の消極的な制約が課せられることにはなる。しかし、右推薦制度自体に関しては、推薦を行う労働組合の資格について、同法施行令二一条一項が「都道府県知事が労働者委員を任命しようとするときは、当該都道府県の区域内のみに組織を有する労働組合に対して候補者の推薦を求め、その推薦があった者のうちから任命するものとする。」と定めている以外には、労組法二条及び五条二項の規定に適合する旨の証明書の添付が求められているだけであるから(同法施行令二一条三項)、都道府県知事において、右資格を有するすべての労働組合に対し個別に労働者委員の候補者の推薦を求めなければならないとされているわけではないし、一つの労働組合が推薦する候補者の数に限定はなく、労働者委員に推薦される者は、労働者の立場を代表する者(労組法一九条一項)であれば足り、労働者委員は、任命された後は、労働者全体の代表として職務を行うものであると解される。
右のような労働委員会の性質や権限及び労働者委員候補者の推薦制度の仕組みを併せ考察するなら、右推薦制度は、労働者全体の利益を擁護するのにふさわしい労働者委員を選任することにより、その労働委員会における活動を通して、労働者の地位を向上させることに寄与し、労使間係の対等かつ安定した秩序の形成・維持を図るという公益を実現するためにあるというべきであり、特定の推薦組合及びその組合員の利益を反映させるためにあるものではないというべきである。すなわち、右推薦制度は、労働者委員の任命に際し、労働者全体の意思を反映させるために存在するものであり、ただ、労働者全体の意思を認識することが容易でないことから、これを制度的・組織的に担保するものとして、労組法上労働者の経済的地位の向上をその使命とされている労働組合が推薦主体とされたものと解すべきであって、労働者委員をして当該組合及びその組合員の利益を代表させるために候補者の推薦権を付与したものと解することはできない。したがってまた、労働組合は、個別の労働者委員の任命手続に具体的に関与するための手続的権利として推薦権が労働組合に付与されているものということはできず、労働者委員任命の前提手続としての推薦制度を通じて一般的に任命手続に参加することを超えて、更に誰がそれに任命されるかという個別の労働者委員の選定についてまで関与し得る法律上の権利ないし利益を有するということはできない。このことは、推薦を受けた候補者においても同様である。
3 なお、原告らは、我が国の労働組合運動においては系統を異にする労働組合の間で運動方針及び路線を巡って対立が存すること、このような現実に基づいて前記五四号通牒が発されたこと等の諸点を論拠として、各系統に属する労働組合の利益を制度上労働者委員の人選の面においても反映させるべきであるから、推薦組合等にも原告適格を肯定すべきである旨主張する。しかしながら、右の五四号通牒は、甲第一四号証及び弁論の全趣旨によって認められるその発出形態及び内容から明らかなとおり、労働省事務次官が都道府県知事に宛てて、地方労働委員会の労働者委員の任命に当たって考慮すべき事項等を示したものであり、その結果としてある系統に属する労働組合の推薦に係る者が労働者委員に任命されることがあったとしても、それはたまたま右通牒の示した基準が遵守されたことから反射的に利益を得たというだけのことであって、左通牒によって直ちにその候補者を推薦した組合及びその推薦を受けた者が個別・具体的に何らかの法律上保護された利益を付与されたということはできないのであり、原告らの右主張を採用することはできない。
4 以上のとおり、原告らは、本件処分の取消しを求める訴えに係る原告適格を有しないから、原告らの右訴えは不適法であり、却下すべきである。
二 損害賠償請求について
1 【要旨二】知事による労働者委員の選任は、労働者を代表して労働者委員としての責務を適正に果たしうる者であるかどうかという観点から行われるべきものであるが、労働組合の推薦を得ていない者、一定の欠格事由のある者を労働者委員に任命することができないという制約があること以外に法規上その選任基準について何の定めもない。それは、右のような観点からの候補者の評価は、その性質上判断要素が多岐にわたる上、一定の価値基準に基づいて一義的に判断することができるものではないため、予めその判断基準を定立することには困難を伴うことから、住民の直接選挙により選出され、都道府県を代表する地位にあり、その職責上、右の判断を適正にし得る立場にあると考えられる当該都道府県知事の健全な裁量的判断に委ねたものと解される。そうすると、労働者委員の任命は、都道府県知事が、いわゆる自由裁量行為として、自己の責任のみに基づいてこれを行うものと解すべきである。したがって、知事による労働者委員の選任については、当不当の評価はあり得ても、知事がその権限を明らかに踰越して行使し、又はこれを濫用したなど特別の事情の認められない限り、違法の問題を生ずる余地はないものというべきである。
2 そこで、右裁量権の踰越又は濫用の有無について検討する。
この点に関し、【要旨二】原告らは、労働組合運動に思想、路線の対立が現に存在することを前提とし、憲法一四条、同二八条、五四号通牒、平成元年以前における労働者委員に係る選任慣行などを根拠として、本件処分において県労連推薦の候補者が少なくとも一名は労働者委員に選任されてしかるべきであったと主張する。確かに、我が国における労働組合運動においては、全国中央組織及び地方組織ともに、運動方針を異にする各系統が存在し、それが今日ではいわゆる連合系と労連系とに大別され、その間で基本方針を巡って対立していることは公知の事実であるし、労働者委員は、労働者一般の利益を代表すべきものとはいえ、特に組合間差別による不当労働行為が問題とされる事件等においては、自己を推薦した系統と異なる系統の組合側からの信頼と理解を得ることに困難を生じることも予想し得ないではないことなどの諸点に徴すると、労働者委員の構成において、いわゆる系統の存在を考慮に入れた上で多様性を持たせることは、相当な合理性があるというべきであり、この観点からすれば、五四号通牒の趣旨そのものは、今日においてもなお十分尊重に値するものと評することができ、したがって、実際の運用の面においても、適正に任命権を行使するためには右の趣旨を一つの要素として考慮することが望まれるということができる。
しかしながら、労働者委員は、推薦を受けた組合及びその組合員を代表する者としてではなく、労働者全体を代表する者として選任され、また、準司法的機能を有するために統一体としては中立公正を求められる労働委員会を構成する者であることにかんがみるならば、原告らが根拠として主張するものをすべて考慮しても、右のような多様性の要請が絶対的なものであると解することはできないのであり、右要請が知事の前記自由裁量権を行使するときの尊重すべき考慮要素の範疇を超えて、その権限の範囲を画する羈束性を有するものということはできない。
また前判示の諸点に徴すると、憲法一四条及び二八条によって五四号通牒に基づくような労働者委員の配分が知事による任命権行使の面においても要求されていると解することもできない。
3 【要旨二】右に検討したところによると、被告知事が本件処分により結果的に連合系組合の推薦に係る候補者のみを選任任命し、原告井上を選任しなかったからといって直ちに被告知事がその裁量権を踰越又は濫用したと認めることはできない。
また、本件全証拠によっても、被告知事が原告井上を労働者委員候補者として扱わないなど明らかにその裁量権を踰越したり、殊更原告らに不利益を与える意図において本件処分をしたなど明らかにその裁量権を濫用したとする事実を認めることはできない。この点に関し、知事の事務部局において地方労働委員会委員の任命を所掌する社会部労政課長の職にあった証人清水幸治は、任命手続の過程において被推薦者六名の中から別紙記載の五名が選定された理由を詳らかにせず、ただ地方労働委員会の運営についての理解力と実行力、判断や説得に関する能力等を総合的に判断し、その結果右の五名が相対的に優れているものとして選定されたとだけ証言する。もとより人事に関する情報は、公表に適さない事項が多く含まれているから、右のような証言だけをとらえて被告知事が恣意的な判断をしたとすることはできない。そして、他に同被告が差別的意図をもって本件処分をしたことを認めるに足りる証拠はない。そうすると、被告知事による本件処分が原告らに対する関係で違法ということはできない。
更に、本件処分により原告井上が労働者委員として選任されなかったことにより原告らに事実上の不利益が生じたとしても、それは、定数を上廻る候補者がある場合に制度上避けることのできない事態というほかないから、不法行為法により保護されるべき法益を侵害されたとすることもできない。
4 なお、被告県は、本件処分の取消しの訴えについて原告適格が認められない以上、本件損害賠償請求についても併合要件を欠く不適法な訴えとして却下されるべきである旨主張するが、抗告訴訟と併合提起された関連請求に係る訴えに関し、右抗告訴訟が不適法であるため併合要件を欠いているとしても、受訴裁判所としては、関連請求に係る訴えがそれ自身として適法なものであれば、原則として独立の訴えとして審判すべきである。もつとも関連請求の併合が抗告訴訟と同一の訴訟手続内で審判されることを前提とし、専ら併合審判を受けることを目的としてされたものと認めるべき特段の事情の存するときは、例外的にその関連請求に係る訴えは不適法として却下すべきであるところ、本件損害賠償請求訴訟は、訴えの形式においても、またその請求の内容においても、被告県主張のように付随的なものにすぎないとはいえず、独自の存在意義を有することが明らかであり、右特段の事情が存するとはいえないから、独立の訴えとして扱うのが相当である。そして、このような場合に、弁論を併合して一個の手続により審理をし判決することができることはいうまでもない。
三 結論
以上の次第で、本件処分の取消しを求める訴えはいずれも不適法であるから却下し、原告らの本件損害賠償請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 齋藤隆 裁判官 針塚遵 島田尚登)